大人になったなぁ、としみじみ実感する瞬間というのがある。
例えば、1人温泉地に赴き部屋で酒をグッとあけながら食事をしている時、
あるいは小料理屋でもしかり。
1人旨い酒を酌みながら旨い料理に舌づつみをうっている時、そんな時にふと大人になったんだなぁ、と実感する。
アルコールを嗜むようになって以来、いつしかオーセンティックなバーに憧れを抱くようになっていた。
ギムレットを傾けるフィリップ・マーローの幻影を脳裏に浮かべつつ、
いつしか自分もカウンターでグラスと対峙したいと思っていた。
『George's Bar』でマティーニを口に含んだ時、長年の憧れが現実に変わったのを感じた。
黙々とカクテル作りに励む老バーテンダーを前に僕はしみじみと大人の幸せを実感していたのだ。

初めて George's Bar に訪れる僕に向かって、「ここにきたからには」としたり顔で友人が語る。僕はいましがた飲んだマーティーニに心奪われていた状態で、無条件でそのお薦めを戴こう、という気持ちになっていた。
「ジルベルトマーティーニを飲まなくちゃ」と彼は言った。
ジルベルトマーティーニ……その名前は僕にさわやかな印象をもたらした。
ゲッツ&ジルベルトのライトなボサノヴァが頭の片隅に響いた。
僕は仕事をしているときに彼らのCDをよく聞いている。
深い抒情的な余韻を残す軽快なリズムを聞いていると仕事がはかどるのだ。
そんなことを思いながらミスター・譲二の動きをチラと見ると
氷で冷やしたグラスに並々とジンを注ぎ、レモンピールをした、だけに見えた。
通常のマティーニがジン4ドライベルモット1の割合だとするなら、
超辛口のマティーニということになる。
僕は恐る恐るグラスに口を付けてみた。
モルトを嘗めているのとはまた違った鮮烈さが口腔内に広がった。
液体が食道を通過していくときに感じるピリッとする感覚。
キリリとした爽快感のおかげで喉に流し込めることが出来るような……

その日の僕はそれで終わってしまった。
その後のことは記憶に残っていない。
翌日、あまねく気怠さの中でジルベルトマーティーニのことだけが頭に浮かんだ。
いったいあれはなんだったのだろう……
数週間後、再びお店を訪れた。
「ジルベルトマーティーニを」とオーダーする声がだいぶうわずっていた。
ミスター・譲二がチラと見て少し笑ったような、気がした。
第六回 「ダイキリ」
第五回 「ウェブマスター」
第四回 「モンキーズランチ」
第三回 「ジルベルトマティーニ」
第二回 「ミントジュレップ」
第一回 「マティーニ」