2006年05月07日

わなにかかってしまったようだ

なんだかshi3zさんのわなにかかってしまったようなのですが、いくつか間違いもあるようですので修正をば。

某世界最大の代理店で唯一副業を公認されていたといううわさの

この部分ですが、実際には3番目でした。
一番目が芥川賞作家、二番目が直木賞作家、三番目が放送作家というしょぼいオチが利いていたという次第。
社内的な呼称で言うと「アーティスト契約社員」という制度だったのですが(注:アーティストだなんて自称したことなどありませんです)、その後何人かは増えたと思います。詳細は良くわかりませんけど望月衛とかもそうだったかも。
薄い記憶を手繰り寄せると、確かこの制度ができる前に尼子騒兵衛さんやケンイシイくんなんかが本業と副業のコンフリクトを起こしてしまい退職せざるを得なかったという経緯があり立ち上げられた制度だったのではなかったかしらん。
あやふや。

そのほかの部分は瑣末なところですのでいいとしまして、「だからたいしたモノではない」とだけ理解していただければ。(誰に書いてるのかわかりませんが)

で、蛇足。

まあ外からみるときと中から見るときでは違うでしょうね

これは確かにそのとおりだと思います。
昔話で恐縮ですが、当時放送作家として仕事をしていたTBSの阿部ちゃん(今ではうたばんなどのPをやっている売れっ子)からこんなことを言われたことがあります。

「あのですね、KQZ先生。   (←こういう言い方をするのだ)
 作家料って直接お支払いできないものでしょうか。
 といいますのもね、どうも、なんていうか、
 広告代理店さんにお金を支払う、ってどうもやったことがなくて抵抗があるんですよ…」

媒体の人からすれば広告代理店などは「お金を持ってくるやつら」であり、制作の肝となるアイデアだし、つまりshi3zさん的には「0を1にする」=「科学力」の部分は全く求められていないということなんですよね。
「視聴率なんてD通さんがちょちょちょいって操作してるんでしょ?」とか冗談交じりに言われたこともありますが、広告業界的には厳重この上なく管理されているものですから、そこら辺にも認識の差があった記憶があります。

他方、「年間数百億円という広告料を使っている巨大企業」と実際にロケに行ったりフィルムを回したり編集したり… といった「いわゆる現場」という組み合わせを考えてみると、かたや支払いサイトが半年先の手形で受け取っており、かたや翌月末現金払いや仕掛金といった払い出し作業をしているわけで、この側面からしたら広告業界内での金融業を行っていると受け止めることだってできるわけです。
まさにいる業界や見る視点が違えばその様相は全く変わりますし、もとより黒子の稼業ですから世間一般からすればわからないということなのでしょう。その点でいうと僕は偶然にもギョーカイと色々な係わり合いをしてきているのでそれぞれの認識のズレがわかって逆に面白いんですけどもね。

ですから(ん? なんか変なつなぎだな)、月刊FACTAの編集長がそのblogで代理店内部での情報取り扱いに対して疑念を表明されているその根本的な素地として、雑誌編集制作の現場で育ってこられた方に特有な代理店に対する不信感があるのではないかなぁと思っていたりするのです。(TV局のプロデューサーが持っているものと同じく)
つまり「どうせこいつら右から左へ金を持ってくるだけなんだろ」という相手を下に置いた意識があるのだろうなぁ、と。
今回のインサイダー疑惑についてはよくわかりませんが(と言っておこう)、少なくとも僕がいた周辺ではそんなにわかりやすい不正はする意識すらなかったとだけは確信できるのでした。高々数百万・数千万のあぶく銭なんかで棒に振るには惜しいくらい面白い仕事をしていましたしね。もっとも三年も前の話なんでアレですが。


しかしなんですな、shi3zさんの怒涛のblog更新を見るだに「10を1にする力」ってのもあるような気もしたりしますね。教育力とか感化力とかいうものなのかもなぁ。

投稿者 KQZ : 23:40 | コメント (2) | トラックバック

2006年05月06日

0を1にする力というより10を10000にする力というか

なにかとお世話になっているshi3zさんのところから。

アキバ系!文京区本郷四畳半社長: 0を1にする力と1を10にする力
 http://shi3z.cocolog-nifty.com/blog/2006/05/01110_606c.html

    ※書きかけのエントリーを一日以上置いて手を入れてUPするというのはなんか残り物のお惣菜を作り直すみたいでいやん

「0を1にする」「1を10にする」という定義づけはもうすでに聞き飽きたフレームのお話でしょうからあまり深く立ち入らないこととします。
「質量化」と「容量化」(1mlの水を生成する仕事と、それを6000倍以上の水蒸気にする仕事の差)とも言えますし、所謂「ソフト」と「ハード」の違いと言うことだってできるでしょう。
またshi3zさんのエントリーに底流している共通認識としては、 (ちゃんと仕事のできる)プログラマーにはどの段階であっても「0を1にする」に通ずるクリエイティビティが必要充分条件としてあるいは不可分のものとして存在している(はず) というところは指摘しておかねばならないでしょうか。
これ以上は長くなるので割愛っと。

で、気になったのはこの部分なのです。

全くなにもない状態から、何かを産み出す能力を、僕は便宜上「科学力」と呼んでいます。たとえなにかの組み合わせであったとしても、またそれが不安定なものであったとしても、あたらしい組み合わせ(や、見せ方)によって新しい結果を作り出すのはまさに実証科学的な手法そのものだからです。

科学力の高い人は、意外にも広告代理店に多く居ます。

工エエェ(゜Д゜)ェエエ工

思わず普段使わないAAをgoogle先生に聞いてみてしまいました
そ、そうなんですか?>shi3zさん

とまれ。
僕なりの解釈で言うと、広告代理店の作業には「0を1にする」「1を10にする」という以外に「10を10000にする事を年に10回くらい同時進行でする」という別種の力が必要になるのではないかなぁ、とうっすらと思ったりしています。
そしてその力というのはあながちバカにはできない力なのではないか、とも思うのです。
この力は「科学力」「技術力」というshi3zさん的なワーディングでいうと「工業力」とでもいうべきなのでしょうか。

そして確かに、代理店にまつわる一連の作業は非常に勉強になります。
なんといってもお金がかかるのです。価値を10000にまで持っていくのには。
人様の商品を大金をかけてマーケティングするわけですから失敗は許されません。
ですからおのずから使う外部スタッフは超一流になります。(ことが多いです)

    よく美術系の先生が「とにかく映画をたくさん見ろ、テレビなんか見ても役に立たないから」と生徒に言い含めることがあると思いますが、これは(ある時期までの)映画の方がテレビよりもずっとお金と手間をかけていたから、というのが根本的な理由です。ああ脱線。

さてさて続けるとしまして。
(shi3zさんの解釈を一義的に正しいものとして僕が非力な思考力で理由を補うとすれば、の話ですが)
あくまでも思考実験としてのお話ですが超一流のスタッフとものすごい濃度の(金額的にも、スピード的にも)作業を何度となく重ねていけば、ある程度の鍛錬にはなるでしょう。
スピードが速いということは成功するにせよ失敗するにせよフィードバックの機会も多くなりますからね。
そしてこれらの一連のターンの集積は「0を1にする」というプロセスにも応用できるのではないか、という仮説にも頷けはするのです。

でも、でもここまで考えてみてもやっぱり 工エエェ(゜Д゜)ェエエ工 なのですよね。
特に「広告代理店に多く居ます」の「多く」あたりが。
同じ広告代理店出身者といっても人のblogに勝手なコメントを書き連ねて挙句の果てには「すみませんここまでの経緯を全部削除してください」とか臆面もなくいう恥ずかしいオッサンがいたり、職歴ロンダリングの為にロクに仕事もせずに得意先企業の広告費を使って自分の作品作りをして挙句の果てに外資系検索屋に転職したりする輩もいるわけでして、けして頻出しているわけではないのではと。


閑話休題。

僕が広告代理店に入社してクリエイティブ局に配属されたときに研修で見せられたCMに
「答えは15秒後。ジャカジャン」
というものがありました。(なつかしー)
これはまさに「10を10000にする」という思考プロセスから生まれた科学力なのだと思います。わかりやすく。
簡単に説明すると、CMタイムはチャンネルを切り替える時間です。(今も昔も)
それをサンドイッチすることによりチャンネルザッピングを防ぐことができるわけです。
当然間にはさまれたCMの企業も嬉しいという。


さて話を戻すとして。
僕はこれまでに天才も変人もたくさん見知ってきていますので、shi3zさん自身が天才の癖にとりあえず何でもできてしまう変わり者だということは良くわかるのですが、「1を及第点である5くらいにしたり」「10を100にしたり」といったところは恐らくあまり得意ではないのだと思うのです。

ということで『ユビキタスエンターテインメント社のスタッフさんたちどうもありがとう』、というのがこのエントリー唯一の言いたいことなのでした。まる

投稿者 KQZ : 23:55 | コメント (3) | トラックバック

2006年03月03日

「二次元萌え」と「アクション&レスポンス」との関連はちょうど微分積分の間柄なのではないだろうか

夏目房之介の「で?」: 竹熊さんのブログに・・・・
 http://www.ringolab.com/note/natsume2/archives/004307.html

本来のリンク先の内容とは違うかもしれませんが「動き萌え」というワーディングが気になったのでした。
詳しくは↑を読まれたし。

それはそうと。
似たような話で、10日ほど前にmixi内で

「アクション&レスポンス」と「二次元萌え」との関連はちょうど微分積分の間柄なのでは

などと書いていたのですよ。
んで、思い出したので以下に転載、と。

2006年02月23日02:11

山崎晴可さんの日記(結婚したいのに彼氏ができない人)が面白かったにも関わらず業務多忙で乗り遅れたので他の方向へとセルフ考察メモ。

 そこで、結婚したい彼氏ができないまま、年齢的にリーチかかって、あせりまくってる女性に ひとつ言いたいことがある。 (どうでもいいですよ とあきらめてるのは 以下は読まんでいい)

「名前を呼ばないから捨てられる」
 つきあってるのに自然消滅しやすい人や、どういうわけか彼女にしてもらえない人、なぜか(浮気でなく)乗り換えられちゃう人は、圧倒的に「彼の名前を呼ぶ数が少ない」

ある [n次元] の事象に直面した際に、人はそれを [理解] するために意識的に/無意識に [n-m次元化] しているのではないかと思っている。
[微分化] と言ってもいいだろう。

参照:
 楽しいという感覚はうれしいという感情を微分したもののような気がしてきたその次に
 http://www.authenticbar.com/kqz/days/archives/001050.html


この後に

  • 女は外見ではない
  • 男は名前を呼ばれただけで(わたしからはなんて呼ばれたい? と聞かれただけで)ありとあらゆるフラグが立つ
  • 昔は「ラムちゃん」だったらいい、みたいな「外形的要素」で済んでいたんだが、 いまは「ツンデレ」「メイド」のように、アクション&レスポンスが 要求されてる
  • 外形的要素は 男性にとって「受動」なんだが、 レスポンスについては、能動とセットでないとありえない

といったクラクラするようなやりとりがあったわけで、ここで「アクション&レスポンス」と「二次元萌え」との関連はちょうど微分積分の間柄なのではという話にやっとつながるのでした。(あーなげーなぁ)


2006年02月23日02:11

で。
どんなに複雑に見える事象も、意識と時間のふるいにどんどんと晒されて、最後には快/不快にまで単純化されてしまう、と仮定してみる。
そしてそれは [理解の秘密] なのではないか、と。

2006年02月23日02:12
[n次元] の事象をありのままそのままに理解できるとしたら、サヴァン症候群でもない限り無茶な話だろう。
無限の様相を持つ時空間連続体を [個人のキャラクター] という限られた切片で切り取っている、その切り口のみが個々人に認知できる [事象] のすべてなのだから。

2006年02月23日02:13
つまりこういう言い方もできる。
既に [n次元の事象] と認知している段階で [個人のキャラクター] による微分はなされているのだ。

2006年02月23日02:14
そして名前とは空海の言う [秘鍵] である。
世界中のさまざまな部族伝承やゲド戦記、指輪物語に至るまで(変な言い方だな。メタメタ)
「名前」はすなわち [ふるい] = [d/dt] = [個人のキャラクター] の根幹に結びついているからだ。

どっちかというと [d/dt] ではなく [d/dC](C=Caracter of yourself) とかの方が近いんだろうけどもね。

2006年02月23日02:16
恋愛期において「彼氏の名前を呼ぶ」という行為は、そのたびに理解しようとしている主体(=彼氏)の根幹を揺さぶっている、ということだ。

2006年02月23日02:18

…と、ココまで走り書きしといて眠くなったので寝るか。

そして今となっては走り書きの後になにを書こうとしていたのかがよく思い出せないのである。
うむー。

この直後後にコメント欄で鶴見六百さんが、

2006年02月23日03:06

横入り。

[n次元]の微分、という感じで入力素子数(軸数)のメタファーで捉えるのと同時に、ニューラルネットなんかでいうレイヤーの段階として捉えた方が正解かなあと、ちと考えてしまいましたよ。

つまり微分というよりは、入力レイヤー(素の入力)→中間レイヤー(様々な入力に重み付けした結果)という感じで、レイヤーを一段下る、というイメージですね。

んでもって、名前入力は、あらゆる人間にとって大きな重み付けが為される「ツボ」なのかなあ、と。

とか、中目のノンダクーレさんが、

名前というのは呪いだと思ってますので。
「名無しさん」のつながりは薄いですよね。
というように、とことん俗なのが私のアプローチです。

などとすぐに返してくれるわけで、やはりmixiのように限定空間内のやりとりの方が反応が速くて濃いまるで高校男子のs(ry……

ま、あたしら文筆芸者は反応があるとなんぼでも書き散らしまっせ、ということですかな。

投稿者 KQZ : 20:18 | コメント (0) | トラックバック

2006年02月24日

売りから入る幸福デリバティブ

ま、大した内容ではない。

以前にも書いたSargassoというソーシャルトラストネットワークなるもので今日一番初めに飛び込んできたblogがコレ。

内田樹の研究室: 不快という貨幣
 http://blog.tatsuru.com/archives/001572.php

うん。
面白い。

概要はというと、

いわゆる「働かない」人々について

彼らはそうやって学校教育からドロップアウトした後、今度は「働かない」ことにある種の達成感や有能感を感じる青年になる。
だが、どのようなロジックによってそんなことが可能になるのか。
とした上で、
「家庭内での忍従」を「等価交換」したものを「価値」すなわち「不快という貨幣」と感じているのではないか
とおっしゃっている。
(たぶんね。詳しくは引用先のblog参照のこと)

でもそういう心の動きは過去から現在まで結構普遍のものではないかなぁ、とも思うのだ。

それは「現在自分が置かれている状況」と「本来の自分がいるべき(はずの)状況」との差をもって価値と感じるという、実情とは関係のないいわばテクニックの問題なのではないかと思う。
株式市場が下がっている状況下でも売りから入れば儲けられるというのと同様にね。

脳内お花畑の万能感を心の糧に生きている人もいる。
宗教的なランクが上がるからといって生活を切り詰めて良くわからない壷を買うような人もいる。
空ろな目で前世の冒険譚を嬉々として話す人もいる。
(もっとも、それらが実生活へと結びつく回路を構築できれば作家なんかになれるんだろうけどもね)

いや、いや、そういう特殊な話ばかりではなく、卑近な例で言えばちょっと前に書いたエントリーでもこんなことがあった。

  • (寒い中、六本木の交差点付近でのこと)
    「南米系の太ったおねーちゃんはこの寒い中素肌に黒の太リブ編みの小さめのカーディガンを着ただけでへそを出して歩いている」
    のを見て、

  • 人間は「本来自分がいるべき場所」というイメージにとらわれてしまうもの

  • 夏のオフィスで冷房設定が23度でもシャツ一枚で気分良く過ごせるのに、冬の暖房だと28度でもセーターが脱げないのは「本来は35度だから」「本来は零下2度だから」というイメージが関係している(はず)

  • 「幸せぽかぽか家族」とかいうテレビ番組で、海外に移住している日本人一家をよく登場させているけど、思いのほか小さな家にニコニコ住んでいる人たちも多い。これはもしかしたら「本来は」というイメージが「リゾート地でホテルに泊まれば●円なのに、俺は毎日住んでて●円なんだからお得だ」という感じ方が働いているからではないかなぁ

  • この南米のお姉ちゃんも、きっと昼にママンからかかってきた電話で「コッチはめちゃくちゃ暑いのよ。お隣のジョセフの牛が熱射病で死んじゃったくらい」「ホント? Tokyoは雪が降りそうよ」「いいわよねぇ。ママンも雪ってやつが見たいわよ」とかいう会話をしてしまったのだろう。『自分が本来いる場所は酷暑→しかし私のいるところは涼しい(ホントは寒い)→リゾートにいるってカンジ!』てなことなのか。ま、妄想だけどな。

つまり、
「どう考えても寒いだろコレ」って気候でも「なんかリゾート気分(はぁと)」と思っている幸せそうな南米娘の図式と、
「本当の自分」つまり「幸せであるべき自分」と、今現在の「忸怩たらざるを得ない自分」との差を価値として見出している青年という図式とに、
本質的な差はないのではないかなぁってことですね。

とまれ、信用取引の場合、売りから入るのはいいけどどこかで買い戻さないと利益は確定しないんだけどね。
その破綻が本人にも見えてしまっているのが悲劇の根本なんだろうけど。
※ゲーム内のバーチャルな通貨をリアルなお金に換金する輩もいるけど、それはそれでまた別の問題


思わぬ展開のエントリーになっちまいましたが、なにはともあれ、普通に生活していれば絶対に読むことの無さそうな学者さんのblogに引き合わせてくれたSargassoさんには感謝しておきましょうっと。>鈴木健さんと須子善彦さん、あと紹介してくれたshi3zさん

投稿者 KQZ : 11:14 | コメント (0) | トラックバック

2005年12月08日

VIPSTARについてもうちょっと

追記:2005.12.9 01:19

なんだかやたらと訪問数が多いようなのでちょっとだけ書いてみる。

先日経済産業省の境さんと盛り上がっていたのは、このVIPSTARのでき方自体が興味深かったからなんですね。

これまでのプロダクトというのは通常「発注」→「制作」という流れ、つまりニーズや意図がどこかにあってそれを制作サイドの人が受ける形で物が作られていくというのが普通だったはずでして、いわばサーバ‐クライアント型だったはずなのです。
ここまでは言わずもがなですな。
10年近く前に「一の会」を立ち上げたときに岡本呻也さんなんかに話したこととなんら変わりはありません。

さて、これが「イマドキ」になるとどうなるかというのは以下のエントリーにその雰囲気が出ていると思われます。

圏外からのひとこと(2005-11-24)
WEB2.0サイト = 発酵食品説

 http://amrita.s14.xrea.com/d/?date=20051124#p02

特定の環境にそのような情報を置けば、自然とモノが腐る。ネットというのは、そういう環境である。

(中略)

公開したデータは、盗まれ検算されそれを取りまく人の動きを推測する為に使われ、笑われ感心され無視されトホホと言われ人を感動させ時になぜか人を立腹させ、コピーされ改変され再配布され、全ての可能な使われ方で使われ消費される。大半の企業にとって、エコシステムに消費されることは「腐る」に等しいことだ。
とした上で、
WEB2.0的企業は、公開された議論を背景として公開されたソフトウエアで既知のアイディアを実装したシステムによって公開されたデータを使い価値を生む。彼らにとって、エコシステムに消費されることは、「腐る」ことではなく「発酵」することだ。納豆やチーズのような企業だけが、バイ菌だらけのこの世界で生き残っていけるのだ。
と結んでいます。

逆に考えてみれば、ネットというバイ菌だらけの世界で醗酵しうる、元となるソースはやはり大したものだと思うわけです。それだけパワーがある、という意味でも。
個人的かつVIPSTARに関して言えば、このmp3を聞くことで本家のPOP STARが聞きたくなって「歌バカ」まで買ってしまおうかという気にもなるわけです。
贖罪という意識でもなくポチっとな。

ついでに言えば、昨日の夜はSCE&SMEの先輩と飲んでいたのですが(言い方が難しいなぁ。東京スカパラの初代ギタリストとか言えばいいのかな?)、彼に手持ちのiPodでVIPSTARを見せたところ大うけで「事務所に電話して笑って済ませるようにお願いしてみるわ。言っとく言っとく」とかいう話になったわけなのでした。
これがどうなるかは判りませんが、制作サイドにいる人間は恐らく同じような受け止め方をするのでしょう。たぶん。

さてこのblogの読者なら僕が以前ラジオ番組や雑誌などで「投稿」企画の運営を長らくやっていたことを知ってるかもしれませんが(PSでゲームもやったなぁ)、そういった場での幸せなムーブメントは必ず自然発生的な話題の盛り上がり方からでてくることを身にしみて知っています。これにはSETI@HOME的というか、世界中のHackerたちがRFCをやりとりしてプログラムを作っていく感じというか、とにかくも今回のVIPSTARの成り立ちにも通じるものを感じてしまうわけです。シンパシーというか。

web2.0がどーのこーのという話になぞらえると、さくまあきらさんがジャンプ放送局をやっていた時期は1.0といえるんでしょう。参加形態がハガキからメール、つまり「(送信料が)50円からほとんど無料」「(到着するまで)三日から瞬間」へと変わったときに変化は始まったんでしょう。たぶん。
情報の対称性とかいうエントリーもどっかで書いたことがありましたがそれはそれとしまして、っと。
あ、ここらへんか。→Link

さ、仕事に戻るか。(たぶん)

以下追記
でちょっと追加。
VIPSTARの替え歌の質ということについても書き忘れてたのでした。
僕はもともと業界デビューが嘉門達夫さんの弟子筋で、見習い放送作家時代の数年間は毎日のように替え歌を考え、週に数千枚のハガキのネタを読み(誇張ではなく2週録りで当時1万数千枚の投稿が来ていた)、さらには作詞印税ももらってたりするのでそれなり以上に敏感なのでありますが、このVIPSTARの替え歌自体の質も結構高いと思うのですよ。変遷していく履歴のページもどこかにあったと思うけど、徐々にブラッシュアップされていくさまがわかって面白かったし。
個人的には最後のあたりの「I wanna be a VIP STAR」が冗長っぽいから無理やりな日本語歌詞を叩き込んだりするのが好みなんだけどもね。最後の二個手前あたりに早口で入れるとぐー。

投稿者 KQZ : 21:43 | コメント (0) | トラックバック

2005年11月17日

吾唯知ルを足ル

下書きメモ。
検索についてまとめてみる予定。
蹲の話なんかは関係なく、「知る」ということだけをただただ考えてみようかと。

  • 「知る」ということについて
    「吾唯足ルを知ル」ではない。知った後のことはとりあえず考えないという意味なのだ。技術としての「知る」ね。
  • 究極的にはマッチングサービス
  • Robot型検索の限界とは
  • 定義づけを自動化する?
  • query自体が 定義づけ=フラグづけ
  • フラグ付けは理解と同値
  • 無辺なる知識空間においてフラグ定義は分散化されることが前提となる。
    →空間的に? 時間的に?
  • その質的担保
  • 多変量解析? 複ベクトル空間?
  • 連携する系の概念
  • rss的な配信? 集約?
  • サステナビリティについて
  • ある一定の空間にある一定の法則or傾向を持つ定義集団が偏りなく十分にランダムに配置された場合…
    →池の中の鯨やら収益逓減法則やら
  • 空間的把握と平面的把握。ゆらぎと出会い。
  • シナプシス


なんかまとまりそうな予感もするけど寝る。
しかし明日は朝10時から20時まで一分の隙もなく予定が詰まっているというのはどういうことなのだろうか。理解に苦しむ。

投稿者 KQZ : 02:02 | コメント (0) | トラックバック

2005年07月16日

直感的インターフェイスデザインの「直感」って?

大学でデザイン教育を受けてきた立場から見ると、下手なデザイナーが直感という名のもとにあまり考えもせずにひりだしてきたデザインが許せなかったりします。
独りよがりの直感だからです。
そんなこんなで面白そうなことを書いているblogがあるなぁ、ということで反応してみるです。
しかし今の今は岡村靖幸の逮捕のほうが気がかりではあるのですがまぁそれはそれとしまして。

さて、shi3zさん

良いデザインというのは「直感的」であるものだと思います。

「直感的」とは、人間が経験してきた様々な経験の蓄積から、あるパターンを見た時に瞬時にその結果が予想でき、またそれが実際にそのように作動するということです。

とおっしゃり、中嶋さんのblogではもう少し詳しく、
人間は、物が重力によって下に落ちるとか、丸いものはころがるとか、
沸騰してる液体は触ると熱いとか、細い糸はもつれるとか、
薄いものは破れやすいとか、重心の高いものは倒れやすいとか、
冷たいものはぬるくなるとか、息をしないと苦しいとか、
つぶつぶは拾えるとか、炎は上に燃え広がるとか、
だるまはなかなか倒れないとか、
積み木は揺れると崩れるとか、氷の上はすべるとか、
水に濡れると冷たいとか、遠くの音は遅れて小さく聞こえるとか、
腕はある角度以上曲がらないとか、固いものは落ちたら壊れるとか、
ドミノ倒しの原理とか、空洞のものは水に浮くとか、
尖ったものに触ると痛いとか、ねじったものは戻るとか、
細いものを立てると倒れるとか、重いものはなかなか止まらないとか、

そういった物理現象に対する基本的な感覚を、誰に教わるともなく、
幼少のころまでに完璧に学ぶ。さらに、視覚的な情報だけしかなくても、
このような物理現象が起きることを予想し、
それに非常に速く反応することができる。

とそれぞれおっしゃっていますが、以下はそれらについての雑感になります。
といいますかカンタンに言ってしまっている「直感」は誰の「直感」なのか、ということを考えるとなかなかに奥深いと思うのですよ。

例えば人間と比べて10の100乗くらい大きな生物がいたとしたら、窒素ベースの生物がいたとしたら、その直感はきっとわれわれのものとまったく違うだろうに… とかですね。
そんなSFまがいのことを持ち出すまでもなく、(前にも書いた覚えもありますが)おそらく文化圏が異なるだけでずいぶんと「直感」で認識される幅が違うはずなのですから。

ここで話がちょっと飛びます。

さて、大量の情報を操作するときに一番直感的に動かしやすいのは、現状では本のメタファーであることは疑いようがありません。少なくとも僕にとっては、です。
Webサイトでタブを使っているところなどを見ても、いわゆる一般的に「使いやすい」といわれている情報操作系のインターフェイスデザインは本のデザインシステムを踏襲しているはずです。

もう少し例をあげてみると、 「←」 「→」 とアイコンが並んであれば普通は 「戻る」 「進む」 と読み取るでしょう。
でもなんででしょうかね?

この例であげたように、情報の流れや時間の流れが左から右であらわされることが多いのは、人類に右利きが多いことと関係がないとは思えません。直線を引くときには骨格的に左から右へと引いてしまう、そのベクトルが関与している方が多いのではと思うのです。ページをめくる動作もそうでしょう。(魚や動物を書くときにはなんとなく左を向けてしまう、というわけですな)

んで話を戻します。

ことインターフェイスデザインに関して言えば、物理現象というよりは動物である人間の種としての規定、文化的な規定に関係しているのではないか、と思っているのです。

もちろん、いわゆる「常識」を紡ぎだすにいたるのには、さまざまな物理現象を目の当たりにしてきた経験の積み重ねが必要であることには異論はないのですが、僕ら制作者サイドの立場からしてみればむしろその物理現象を捉えるフィルターであるところの人間の動物としての枠組みの方に大きく関係していると考えねばならないのではと思うのです。
幅ったい書き方で繰り返すと、上で「物理現象」と書かれているものは「人間という動物種のうち特定の個人およびその属するグループが認知できる範囲の物理現象」でしかないということです。
なんとなれば、色弱の方の例を挙げるまでもなく可視光線の波長範囲だって聴覚可聴範囲だって個々人でかなり違います。誰でも80歳を過ぎれば歩いていける範囲も狭まりますしマウスの可動スピードもクリックスピードも動体視力も変わってきます。右利きと左利きとでは平均余命も違うという統計もでていることですし、同じ物理現象から受け取る情報にしてもそれなりの差があるでしょう。

こういった差異があるにもかかわらず、下手なデザイナーは自らの規定するフィルターで通過させて理解した「my常識」に過ぎないものを疑いもせず「物理的事実」だと考えてしまい、子供やお年寄りや身体障害者やとりもなおさず多くのバラエティあふれる消費者にとって使いづらいデザインを作ってしまうわけです。
もっとも、文字を右から左に書く言語体系を持つ人々がどのような「常識」で世界を捉えているのかなどはちょっと僕には想像つかないので教えていただきたいのではありますが。

さてさて。
これら云わば「文化的・属個人的常識」であっても「物理的事実」と密接に関係していることも理解しています。

例えば、言語学的に上下方向の高さの度合い=高低を表す言葉と温度の度合い=高低を表す言葉が同じことが多いのは比重が関係しているのかもしれません。
またその中間としては、グラフなどを描くときに下から上に行くにしたがって数が多くなっていくのは「成長」というタイムスケールのちょっと長い生物的動作の表れかもしれませんし、純粋に結晶というか析出していくときに物の嵩が増えていく際、鍾乳洞のようなものが下敷きとしてあったのかも知れません。


(ここでなんだか話が飛びすぎていることに気づいた自分がいる)

翻って。
ではなぜゲームのインタフェイスが「よくできている」と評されることが多いのかということを考えてみたりして。

これについてはいまさらカイヨワなんぞを引くつもりもありませんが、恐らくは「ゲームはそれ自体やりたくてやっている動作だから」ではないかと睨んでいるのです。インターフェイスと内容が密にリンクしているという意味です。

一方で、電話を使うときや炊飯器のスイッチを入れる操作をするときには、「喋りたい」「米を炊きたい」が主にやりたい動作であり、「ボタンをプッシュしたい」と切望している人はまずもっていないでしょう。本質的に内容とリンクしてないですし。

ここら辺の話は20代前半の頃、同じ建築を学ぶ学生でありCLUBKING周辺にいて親しかった鄭秀和くんとデザインやら音楽やらについて熱く青く話していたのですが、鄭君はその思いを10年以上持ち続け、いまではatehakaとかamadanaといったデザイン家電をも手がけている気鋭のデザイナーとなっています。
ですからリモコンや炊飯器を出してきたときには思わずにやりとした次第。
彼はきっと「計算なんかよりボタンをたたいているだけで無性に楽しくなる電卓」を作りたかったデザイナーなのでしょう。TIにもきっといたと思うけどもね。
 →atehakaの家電など
 →amadanaのキッチン用品など

こう考えていくと、クルマやバイクのデザインに素晴らしいものが多く散見されるというのには、ゲームと同じく「操作するだけで楽しい」というそれ自体の性質が関係しているのかもしれませんね。Macintoshのファインダーもそうかもしれませんが。

雑感1
そういえば数年前に小西康陽さんの個人事務所のサイトデザイン用にNendographixxxのANIさんとモリサワジュンさんと組んで「平面的なタブ構成による情報切り替えではなく画面の奥へ奥へと進んでいくデザイン」というのを考えて出したことがありますが、あまりに斬新過ぎたからかボツを食らったこともありましたっけ。あまりに逸脱しすぎてもダメってことですな。
雑感2
先週だかに中嶋さんに「気持ちよく幾何の操作ができるインターフェイスがDSでできないか」とか話しましたが、同じようなことを考えているやつらがPalo Altoにいやがりました。→http://www.tactiva.com/ かっちょいー。まさに操作するだけで楽しそう。10年以上前にHyperCardでしこしこと作っていたものを引っ張り出したくなってきましたわさ。

投稿者 KQZ : 12:28 | コメント (3) | トラックバック

2005年04月17日

銀座の死闘

日曜日の銀座、17時過ぎ。
有楽町マリオンの一階でクラブオンカードの切り替え手続きを待っている時にそれは起こった。

40絡みの黒っぽい服を着た女性が、もう一人痩せた小柄な女性の片腕をしっかと抱きしめるようにしながら、エスカレーターの脇で気のなさそうにチラシを配っていた男性店員の方向へ足音高く進んでいったのが見えたのだった。

彼女らが僕のすぐ脇を通りすぎる時になんだか微妙な雰囲気がした。もう数年来味わったことのないようなひりつくような塊が通り過ぎたのだ。
誰かが必死に、本当に必死にもがいている、というオーラ。

はじめは急に具合が悪くなった友達を介抱しているのかとも思ったが、それは一瞬で誤解だと見て取れた。
脇の下に押さえつけられた腕から抜けようともがいている小柄な女性の動きもまた必死だったからだ。
まるで太った女郎蜘蛛の罠にかかった紋白蝶といったら例え話がすぎるかもしれない。

黒っぽいアンサンブルを着た女性が男性店員に押し殺したような声でなにやら告げる。
「万引きです」もしくは「掏摸です」だったのだろうか。
繁忙時のデパートの入り口付近にはさまざまな音がうっすらと滞っていて詳しい言葉までは聞き取れなかったが、こちらから見ることが出来た男性店員の顔色からその言葉の内容は何となく分かる。

白い半袖のシャツブラウスを着た小柄な女性が一際もがくと、小さなバッグから三段式の小さな折り畳み傘が転げ落ちた。
思わずそれに一瞬反応した小太りの女性の隙を見て、ブラウスの女性が身をひねりこちらへと駆けようとしたが、すぐに後ろから腰を抱えられてしまい、静かにその奮闘は終わることとなった。

周囲ではその奮闘に気づき、気圧された数人が顔色もなく突っ立っていた。偶然にもストーンヘンジのように見事に円弧を描き、傍から見ればスタンディングオベーションでもしかねないような立ち位置だった。
だがほとんどの人はこの静かすぎる死闘に気づくこともなく、往来に立ちすくむ僕らに荷物がぶつかりそうになって軽く舌打ちなどしている。
平和に今日の晩飯の相談などしながら。

僕はというと、ブラウスの女性がこちらに走ってこようとするのを見て思わず身体が反応してしまい、タックル前の前傾姿勢で夕暮れどきのデパートの入り口で突っ立っている羽目に陥っていた。
これはダサイ。
ゆっくりと体勢をもどしながら見ていると、先程までの必死のオーラの抜け殻のようになり男性店員に抱えられバックヤードに引きずられるようにして去っていく万引き女性は、最後のひともがきの時にどうやら失禁してしまったらしく、コットンパンツの太ももの半ばくらいまでじんわりと黒っぽいシミが広がって行くのが見えた。

人って、興奮すると失禁してしまうもんなんだ。
知識では分かってはいたが、どうやら本当にそういうものらしい。

彼らが奥へと消えたあとには数秒で平和な雑踏が甦り、僕も用事が終わったのですぐさま家路へと急ぐ。
誰かにとってはそれこそ陽の明るい銀座の人前で失禁するほどの一大事であっても、すぐ横にいた筈の誰かには全く気取られることもなく粛々と事態は進んでいく。
賑やかできらびやかな銀座の喧騒と、静かなる死闘とのコントラスト。次元の隙間とも思えるその二者の乖離っぷりは、なにやら一種神聖な儀式のようだった。
誰かの大事件と誰かの日常とはごくごくすんなりと共存していて、海面深度によって同じ海域でも全く別の魚の生態系が成り立っているかのようだ。
あるいは電波や光が波長の差違で混信しないように。

街は時折事件という形をもって、プリズムが光の波長を分解するように普段は気づかない他人の思いや死闘を色鮮やかに見せてくれることがあるらしい。
今日は偶々そういった「プリズムの出現にまみえた」というだけで、世の中は日々連綿と沢山の事件にまみれて白く光っているのだろう。
できれば楽しい事件や思いに立ち合いたいのはやまやまだが、こればっかりはそう言ってはいられない。まぁ自分が楽しい思いを振りまいていれば少なくとも確率は上がっていくのだろう。

そんなこんなで帰り際に木村屋総本店でチョココロネと焼きカレーパンとビーフカレーパンを買って帰ってきたのでした。
我々はエコ乃ちゃんの中の人なのでチョココロネはなくてはならないのだな。うむ。

投稿者 KQZ : 23:58 | コメント (0) | トラックバック

2005年03月09日

News23を見てしばし唖然、のち来客

昨夜半、切込隊長がウチに来て10分ほど打ち合わせをし、慌ただしくもコーヒーも飲まずに次の仕事に去っていった。
何だか大変そうだなぁ。(よくわからないけどw)

その30分ほど前にはほりえもんこと堀江氏がメディアジャックと称して11時台の金太郎飴的ニュース番組に軒並み出演していた。
さしたる感慨もなく眺めていると、特に、眠たそうに喋っている筑紫哲也との絡みがあまりに寒々しかったので思わずガスストーブの温度設定を上げることに。

話の流れは「blogが報道メディアとして有効か否か」「放送など既存メディアとの違いは」などというどっかで聞いたような話題にさし掛かっていたのだが、むにゃむにゃと眠そうに口を動かしているおじいちゃんはともかくとして、堀江氏からしてがインターネットのツールとしての特性をさして理解していないということに愕然としたわけなのだ。
それ以上にディベート下手ということについても。周りにいいスタッフがいないのかにぃ?

blog だろうがHTML日記だろうがMLだろうが、ツールとしてのインターネット(←ツッコミどころ満載のワーディングだなぁ)と四媒体をはじめとする既存メディアとの全くの違いは「双方向性」などといった手垢耳垢目垢のつきまくった言葉で表現するべきものではない。少なくともああいった舞台では時間の無駄。言葉の定義からして面倒なのだから。

ここでは誤謬を排除するためにインスタンスワーディングとして「⇔同値的」という用語を適当に使ってみることにする。

旧来のメディア人がいういわゆるメディアリテラシーのよりどころは、それに携わる人間の矜恃心に期待するしかない、という今となっては誰も信頼していないロジックにのみ立脚せざるをえない。
考えるまでもなく分かることだが、大量に印刷され家まで届けられる新聞や驚くほど手間のかかる編集作業を経てアンテナに降り注ぐテレビ電波の持つ質的・物量的な圧倒力に対して、読者側からの反応は投書をよせるかFAXを送るか電話を掛けるか、といったか細いものでしかない。デモするとかいう手もないことはないが。いや無いに等しいな。
05.03.14追記:読者サイドからの効果的な反応としては不買運動などがあるにはあるが、もとより免許制で参入障壁の非常に高い旧来メディア陣であるが故に不買した後の代替選択肢が非常に乏しい。また記者クラブ制の弊害もあってかどのメディアも横並びの報道に終始している場合も多いため、総じて読者サイドは旧来メディアに対しての諦念へと傾きがちである。ときに、大半のメディアは広告によって経営が成り立っているため、広告主への圧力という点で一点考慮に値する。これらの意味で不買運動が一番効果的なのは受け手から直接聴取料を徴収しているNHKであることは特に指摘するまでもない。以下のラジオ番組や雑誌メディアなどについての経験談は、旧来の4大メディアの中では比較的読者=受け手サイドとの「⇔同値的」なやり取りが演出しやすいという点で書かれている。)

つまり、これら既存メディアにおいて送り手と受け手との間にある「双方向」性の彼我の較差はあまりにも絶望的にかけ離れているということなのだ。
(ここら辺のズレが分かっていれば、ラジオ番組で「リスナーとパーソナリティの関係が『対等な状況に見える』」ように取り組む、つまり「⇔同値的」であろうとすることにより圧倒的な人気を博すことも可能になるわけで。再掲するのは面倒なのでリンク

この点について堀江氏は「blogであれば、沢山の書き込みの中から人気のあるものが選ばれスクリーニングされて、結果的に良質のニュースが浮かび上がってくる」的な事を話していたが、それは本質的な部分ではない。
むしろ語るべき「ツールとしてのインターネット」の特性は、封建的・上意下達式、あるいは四大メディアに属するものの特権的・支配的・独裁的なカッコ付きの「報道」と比較してのダイレクトに対論しうる点であろう。
発信側と受け手とが同じツール・同じプロトコル・同じ時間性・同じ情報強度を持った手段を使ってやり取りができる。あるいは明示的に「できる」と思わせるにたる仕組みがある。
この「⇔同値性」一点のみのはずなのだ。
blogのトラックバックを網野善彦史観でいうところの「封建社会における飛礫」となぞらえて考えるのも一興だがそれは稿を改めよう。(といって多分書かないようなw)

しかし討論下手だよなぁ。
「電車男」とか半可通が好きそうな言葉使ったらそっちに意識が行ってしまって本質にたどり着けないじゃんか。ああいう場面では判断の狂いようがない(もしくは思った方向に転がるような)言葉をピッケルを打ち込むように出していかなきゃ印象すらもブレちゃうのに。
就職面接で能力があるのに惜しくも落とされるタイプですか。

投稿者 KQZ : 07:41 | コメント (0) | トラックバック

2005年02月08日

そういえば●reeを辞めて2ヶ月とか経ったんだっけかな?

この日記blogでは「UIが最低」とか「作ったヤツはバカに違いない」とか、そのその作ったヤツの元仕事上の先輩やゲーム業界のネ申のコメントなどを交えて数度にわたって書いてきたのだが、ついさっきなんだかそこら辺に関して某氏へメールを送ったので晒してみたりして。


Google Adsenseを導入したってことはその時点で「広告を掲載させる」意志がありありとあったわけですよね?

他方、広告媒体としてのGoogleというのは「広告主に対しその製品(サービス)と関連性のあるサイトを効率良く選択し、それを媒体として提供する」というのを根本として成り立っているわけです。
そのGoogle側の媒体選択は機械的になされているのは誰でも知っているはずです。そしてことGoogleは精度の高さと低廉さ故に広告が集まっていると。
この広告システムのほうこそ「SNSの常識」とかいうのよりもはるかに明示的にです。

つまり「ここに生の情報の山があり」「それをGooglebotに食わせれば誰でも検索できる事になる」ということをよーーく分かった上でやっているのだから確信犯としか言えないでしょう。
まさかなんにもなしでお金がGoogleから振り込まれるワケもないですし。w

それはそれとして、過失を求める求めない等というのは面倒くさいという多くの人にできることは

・●reeが信用できないならやめる
・広告媒体として使われる(=検索に引っ掛かる)のがいやなら個人情報を載せない、あるいは偽の情報を載せるに留める

くらいでしょうか。

これを繰り返していくと閉鎖型SNSとしての●reeには魅力を感じなくなるかもしれませんね。
もちろん糾弾するなり変更を提案するなりという方策もあるでしょうが、その価値はないと判断する人も多いと思いますしー。(←オレオレ)

たかだかクローズドβなんだからみんなやめちゃえー、というのがホントの気持ちだったりして。

…なんだかどーでもいいですね。

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2004年09月14日

快楽のサイクルとかなんとか

なんかずいぶん前になっちゃったエントリーの続き。
日が開いちゃったので変なところからスタートしてみるか。

演劇集団に所属していた小谷くんらしく

演劇にかかわっているものとしては、CD、テレビ、ビデオなど録画媒体で人に見せられるものの伝播しやすさはうらやましいです

などと書いてますが、そこら辺をちょっと整理してみましょ。
とはいえ、まずはどこから書き始めるべきかなぁ…
……
んー。
サービスを提供する側からみた「楽しみのサイクル」から始めますか。
全てのモチベーションの源泉というか。

サービス、特にエンターテインメントに携わる人なら全員が理解してくれると思うけども、全てのサービスには固有のサイクルがある。

ここでいう「サイクル」というのは「何かをしでかそうと企てる」ところからはじまって「実際におこな」い、さらに「反応がフィードバックされる」ところまでのことを意味する。

(思い出話が長いので飛ぶならコチラに

一番初めにそれに気づいたのは高校三年の冬だった。
当時僕はアメフトがかなり強い高校にいて、高三の12月まで関東大会の三位決定戦に出ていた。当然自他共に認めるお気楽な浪人決定コースであったため、その最後の試合の翌週に渋谷のエッグマンだかTakeOFFセブンだかで行われた師匠・嘉門達夫さんの東京初ライブに、親父のサイドボードからレミーマルタンのV.S.O.P.を一瓶くすねて楽屋に遊びに行ったのだ。
今となってはたいした酒ではないのだが当時はドキドキとばれないように隠しながら家をでたものだった。

ライブ前のスルーが終わった後に楽屋に行くと嘉門さんがこんなことを聞いてきた。

「なぁ、さっき『ジミー&ハデー』って曲やったやろ? 東京の地名とかでさ、地味なとこと派手なとことか、オレあんまわからんねん。なんかないか?」
「んー、ここが渋谷ですから、派手な待ち合わせ場所は『ハチ公』『モヤイ像』で、地味なのは『東京駅銀の鈴』とかじゃないすかね? 『いけふくろう』とかもあるけど知ってるかなぁ」
「ほうほう。デートスポットだとどこらへん?」
「んー、派手なのは『東京ディズニーランド』とかかな…。地味なのは『たばこと塩の博物館』とか『目黒寄生虫館』とか色々ありますよ」
「そんなんあるんかい? けったいやな。でもそんなん普通知らんやろ」
「たばこと塩の博物館はこのすぐ近くですから大丈夫じゃないですか?」
「派手なほうはディズニーかなぁ」
「やっぱ、『派手なデートは、このエッグマンで嘉門達夫のライブを見に来る事~』とかやるとベタですかね?」
「あ、それもええなぁ。地明かりばーっとつけてな。目潰し(ともに照明の種類)と」

そんなこんながあってライブが始まった。
東京で生まれ育ったものとしてはこんなに人気がある人だとは全然知らなかったのだが、客席は満員ですごい熱気だった。(どこで知り合うようになったのかはまた長い話なので割愛する)

周囲は関西弁を話す人だらけで、どんな細かいギャグにも異常に反応が速い。翻弄されつつライブは進んで行き、ほどなくして先ほど打ち合わせをしていた曲が流れてきた。
ネタがどんどん歌い進み、件の「♪ジミー、ジミー、地味な東京のデートスポットは…」と始まった。
つい一時間ほど前に世間話をしていた、そのネタだった。
自分が考えたネタが会場に流れ、満場の客席が笑いの渦に包まれた。
そりゃそうだ。関西出身の人にとっては人気タレントだった嘉門さんが初めてやる東京のライブ、来るのは関西出身の人ばかり。そこで嘉門さんが東京のネタをやれば驚くのは当たり前のこと。
その熱狂の真ん中に高校三年の冬の洟垂れ小僧のKQZ少年がいたわけだ。

もうね、こんなんをそんな時期に体験してしまったらトリコですよ。変な話が陶酔に近い体験。
本当に些細な事なのだが、あのときの瞬間は今でもありありと覚えている。
だから嘉門師匠には頭が上がらないのだな。いまだにね。

--

と、まぁくだらん思い出話が長くなってしまった。
話を「サービスにおける固有のサイクル」に戻そう。

ライブの面白さというのは、供じ手(変な日本語だが仕掛ける側、とでもいう意味ね)の思い/動きと、受け手の反応との差がものすごく小さくてダイレクトだ、と言う点に尽きると思っている。
その代わり体験できる(or 体験させられる=インフルエンスを与えることの出来る)範囲はおのずと制限される。
それが小谷君には悲しいのだろうけど、しかし体験強度は非常に高い。まぁトレードオフってところかな。

でもってまた自分の体験に戻るが、大学はなんとか浪人もせずにとある大学の建築学科に入り込み(多分入試にあったデッサンの点がよかったのだろう)、都市計画系にいくか設計系にいくか迷った時に「サービスにおける固有のサイクル」という事に思いいたったのだ。

たとえば、建築における「サービスにおける固有のサイクル」はというと、
個人建築は「タイムスパンは一年程度」「体験範囲は家族の人数+親戚や友達の数(+ライフスタイルによってはご近所や会社の部下なども)」「(建築物としての)保持期間は10年~30年」ということになる。
都市計画系だと「タイムスパンは10年から50年を超えるものも」「体験範囲は数万人から数千万人以上」「(構築物としての)保持範囲は30年から数百年」というように、かなり異なってくる。

同じ時期に既に放送作家としてラジオ番組をやっていたり、雑誌のライターをやっていたのでそちらの方もかじっていたのだが、これまでにやってきたエンタテインメントに関する事柄に関して簡単にまとめてみると↓こんな具合になるだろうか。

 

タイムスパン

範囲

保持期間

接触密度

個人建築

1年

家族+α

10年~30年

毎日&濃い

都市計画

10年~50年超

数万~数千万人

30年~100年超

毎日

ラジオ、テレビ

1週間

数万~数百万人

基本的にゼロ

(基本的に)通過

雑誌

一ヶ月

数万~数十万人

数年程度?

(基本的に)通過

CM

数ヶ月

数千万人

数日~一年

(まったくもって)通過

新聞広告

数ヶ月

数千万人

一日

(基本的に)通過

ライブ

数ヶ月

あるいは瞬間

数百人~数千人

二時間程度

(ビデオなどもあり)

通過だが非常に濃い

映画

数年

数万~数百万人

数週間&ビデオ

通過だが映画館での視聴であれば濃い

ゲーム制作

1年~3年

数万~100万本

売れるのは二週間。

ハードの寿命は約五年?

濃い

オンラインゲーム運営

数週間

あるいは瞬間

数百人~数千人

数十分程度~

濃い

セックス

(人によってはバイアグラのお世話に…?)

一人

人による

この上なく濃い

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

※WordでHTMLを書き出したのできったないコードだがご容赦をば(昔の自分なら許さんなぁ…)

たとえば、ラジオ番組の「サービスにおける固有のサイクル」は、「タイムスパンは週に一度」「体験範囲は数万人から数十万人(ただし各人の体験にあたっての強度は千差万別)」「保持範囲は基本的にゼロ(単行本にまとめるとかリスナーがテープに録っておくとかいうこともあるにはあるが)」となる。
雑誌のライターの「サービスにおける固有のサイクル」は、「タイムスパンは月に一度(雑誌による)」「体験範囲は数万部(ただし回し読みや他メディアがぱくったり、などの可能性もアリ)」「保持範囲は古本などのことも考えると数年程度」ということになる。

で、いったいどれが楽しくて、どれを仕事として選択するのか、と迷い始めたのが就職の時であり、色々考えた結果が今も番組作ったりサイト作ったりゲーム作ったり運営したり雑誌に記事書いたり作詞したりなにしたりかにしたり… と上の表に挙げた全てを飽きず倦まずにこれまでもやってきているしきっとこれからも色々な仕事をし続けていくだろう、というわけなのだな。
まぁはじめに広告代理店に入ったのは「他のメディアはユーザーがわざわざ選んでくれるのが基本だが、広告に限っていれば無理やり(見たくない人にも)見せることができる瞬発力の高いメディアだ」という特殊性に気づいたからなのだがそれはまた別のお話。

でもなにか悩んだりした時に立ち戻るのはやっぱり一番最初のライブハウスでの強烈な体験になるのだと思う。そして立ち返ることの出来る経験が出来たことは幸せなのだとも思う。

なもんで、自分が考えた「仕掛け」があり、それに「誰か」が「どのような状況」で触れるのか、と考えるとわくわくして仕方が無い。新しいデバイスが出るたびにそのデバイスで何が出来るのかを考えるのが好きなので、当然そんなお仕事の話も舞い込んでくる、というワケなのだ。

でもって最初の小谷君の疑念である、

CD、テレビ、ビデオなど録画媒体で人に見せられるものの伝播しやすさはうらやましいです

という部分に戻ると、やってみれば分かるけど記録媒体で伝播するものはキャッチボールが出来ないという寂しい点があるのだな。(欠点でも利点でもなく、あくまでも送り手/受け手の関係からいった「寂しさ」なのだけども。そこらへんはトレードオフですな)
雑誌連載やテレビ・ラジオの連続コーナー企画などの楽しさは究極的には受け手との駆け引きであり、その駆け引きに関して言えば恐らくある程度以上のレベルにいる筈なので、そして恐らくはMMORPGにも適応できるのではないか、と思っている。
演劇経験者を採用したというのはこういったことを考えていたからなのでした。実は。
でもね、もしかしたら上の表って横軸を掛け算していったら同じくらいの値になるのかもしれないなぁ、なんてこともうっすら考えてもいるのだ。


ちなみにちなみに、数日まえにラグナロクオンラインの開発者のKim, Hyakkyuが4gamerの記事で色々言っていて気づいたのだが、

http://www.4gamer.net/news/history/2004.09/20040907000013detail.html

もうね、諸々がラジオのコミュニティつくりとおんなじなのですよ。
次はここら辺について書くかな。反応の上げ方とか維持の仕方とかとか。
来週くらいになりそうだけども。(だっていそがしーんだもの)
まぁあくまでも個人的な備忘録だしー。

投稿者 KQZ : 04:07 | コメント (0) | トラックバック

2004年08月31日

終了~

二年間プロデューサー職を担当していたネットゲームの仕事が終了した。
終了といっても運営先が移管されるだけなのでサービスは続くのだがこちらとしては区切りがついたということになる。

まぁいろいろあったなぁ。
最後の最後までプレイヤーさんから評判が良かったことだけは満足している。
それ以外は、色々、ね。(笑)

色々あったといえば、二年前の夏真っ盛りの頃、当時広告代理店社員だったボクを呼んでこっちの業界に引きずり込んだ人間は今は仕事のしすぎで療養中と聞く。だいじょぶかね金澤さん。
前々からのエントリーにあったように個人的備忘録も兼ねて以後なにやらまとめて書いていくかと思うが、今はちょっと一休みですかにぃ。

投稿者 KQZ : 02:00 | コメント (0) | トラックバック

2004年06月04日

下書きメモ

「どうしても電通に入りたいあなたのために」
そういえばそんな文章をチョコチョコと書いてたんだっけか。
しかし11年半の在籍期間中よくOB訪問されたよなぁ。
2割くらいは受かってたから率はよいのだと思うが、人が人を紹介してしまいにゃ大学も高校も関係ない奴らが「会って話聞かせてください」とか言ってやってきてたので、とりあえずWebにでもして読ませてお茶を濁そうと思ってたのだった。
元が古いからちょっとづつ書き足していこうっと。

投稿者 KQZ : 07:17 | コメント (3) | トラックバック